『桜蘭高校ホスト部』が大好きな管理人の、二次創作サイトです。
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片手、しかも利き腕でない左手一本で、
頭や身体を洗うのは随分と時間がかかる。
しかも、頬や手の傷に湯が当たる度に、
痛みが染みて手が止まるから、尚更だ。
こんなに頬が腫れた状況で、
食堂で使用人に囲まれて食事をする気にはなれなくて、
橘に命じて、自室のメインルームに夕食を運ばせた。
ここ二日間、学校に行くたびに鏡夜が、
決して穏やかでない傷を負ってくるので、
学校から家に到着するまでの車中で、
橘からは一体何事があったのかと、かなりしつこく理由を聞かれたのだが、
鏡夜は「自分の不注意」とだけ言って、後は頑なに口を割らなかった。
夕食後、普段の倍以上の長湯をして、
自室備え付けのユニットバスを出た鏡夜は、
メインルームに橘を呼んで傷の手当てをさせた後、
なお鏡夜の傷を心配する橘を、今日はもう帰っていいと告げて下がらせ、
メインルームから続く、勉強部屋に向かった。
勉強机の前にやってきたとき、机の上に放置していた、
携帯電話のランプがピカピカ光っていることに気がついた。
やや長めの間隔で明滅する光は、
電話の着信ではなくメールを受信したことを示している。
椅子に座り、眼鏡をかけて送信者を確認しようとして、
いつも置いている場所にそれが無いことに気が付く。
そういえば、今日、環に殴られた拍子に、
床に落ちて壊れたということをそれで思い出し、
仕方なく裸眼のまま、目を若干細めながら携帯電話を手にすると、
外側のサブディスプレイに表示されていた名前が目に入った。
【環】
「……」
あれほどの喧嘩をして第三音楽室を飛び出していったから、
その日のうちに環からアクションがあるとは思わず、
鏡夜は何かの見間違いじゃないかと二、三度目を瞬いた。
しかし、当然のことながら画面の表示が消えるようなことはない。
『俺はうんざりしてるんだよ。
お前の『家族ごっこ』に付き合うのも。
お前のフォローをし続けるのも……今のお前とハルヒの傍に居るのも!』
環が守ろうとしたものは、今日、俺が壊してやった。
だが、それは、別に奴が憎くてやったことではない。
それが偽りであることを、知らしめるために敢えてやったことだ。
『大丈夫だよ。たまちゃんなら、きっと分かってくれる』
ハニー先輩はああ言ってくれたけれど、
ここまで無自覚を引きずった、
あの馬鹿の心の根っこに蔓延る問題はかなり大きいから、
今すぐに俺の言っていることの意味を、
理解しろといっても難しいだろうし、
しばらくの間は訳も分からず怒ったまま、
こちらに話しかけてくることも無いだろうと踏んでいたんだが……。
親指で携帯電話を広げ、
ボタンを操作してメール一覧の画面を表示する。
メールが着信した時間は、今日の21:33だった。
【From環 To鏡夜 Sub明日】
もう一度ボタンを押して、メールの本文を見る。
【午後お前の家に行く】
正直、面食らった。
普段の環からは想像もできないほどに簡潔な文章だったから。
美鈴さんの娘さんから教わったという、
たまに寄越す解読不能な暗号めいたメールでもなく、
文章の内容とはおよそ意味がつながらない、不自然な顔文字もない。
これは、一体何だ?
例えば、
『お前の言うことはやっぱり認めない』
という文面だったら、鏡夜が身を切って知らしめようとしたことに、
まだ気づいていないということを意味するだろうし、反対に、
『ごめん鏡夜俺が悪かった』
とかいう内容だったら、鏡夜の言葉が含む意味を理解し、
ハルヒへの気持ちを、ようやく自覚してくれたということになるだろう。
しかし、そのどちらでもなく、
こんなにもあっさり用件だけ書いてくるとなると、
さすがの鏡夜も、環の真意を図りかねる。
あの馬鹿はこの期に及んで、何を考えてるんだ?
メールの文面を何度か読み返したが、
他に続く文言も無ければ、新たにメールが来る気配もない。
鏡夜は、ふーっと息をつくと、
ぱちっと携帯を閉じて机の上に置いた。
何か俺に言いたいことでもあるのか。
少しは自分の阿呆さ加減に気がついたか。
他に何か意図があるのか。
まあ、考えた所で、何か結論が出せるわけではないので、
とりあえず何か勉強でもしようかと、鏡夜が学生鞄を開けると、
問題集を出した拍子に、
今日、環が取ってくれた授業のノートの用紙が、
ぱらぱらと床に落ちて散らばった。
拾い上げようとした時、携帯電話が机の上で震えだした。
環か?
鏡夜は、勢い良く顔を上げると携帯電話を再び手に取った。
しかし、予想に反して電話は別の場所からだった。
【藤岡】
ディスプレイに表示されていたのはハルヒの自宅の番号だった。
この番号は、ハルヒの父、蘭花から電話がかかってくることもあるから、
登録名称は名字だけにしている。
さて、どちらからだろうと悩みかけたのも数瞬、
この時間帯、蘭花はバーに出勤しているはずだから、
自宅の番号からかけてこれるのは、ハルヒしかいないだろう。
『鏡夜先輩ですか? すみません、藤岡です』
予想通り、電話の向こうから聞こえてきたのはハルヒの声だった。
彼女の声を聞くと胸の奥に針で刺されるような痛みが蘇ってくる気がする。
「……ハルヒか」
蘭花とは定期的にメールや電話のやりとりをしていたが、
ハルヒが鏡夜に電話をかけてくることなど滅多にない。
記憶にあるのは、フランスの研修旅行の最中、
環のことを心配して様子を聞いてくるときくらいだったろうか。
だから、普段ならもう少し驚いたかもしれない。
だが、今日に限ってはそう意外なことでもない。
昼休みに第三音楽室で起きたことを思えば、
ハルヒが電話をしてきた理由は自ずと明らかだ。
きっと、彼女は心配しているのだ。
彼女が立ち去った後の第三音楽室で、
自分が、彼女との約束を……彼女の秘密を守ったかどうか。
「お前が俺に電話なんて珍しいな」
ハルヒ。お前は何も知らない。
俺のお前に対する気持ちが演技ではなくて本気だったこと。
俺の気持ちを環に見抜かれてしまったこと。
環に俺の感情をぶつけて、奴の描いていた幸せの形をぶち壊したことも。
そう、お前は何も知らない。
俺がどれだけみっともない姿を曝け出したか。
俺がどれだけの犠牲を支払ったか。
……お前を愛しく思う余りに。
『大丈夫。鏡ちゃんの心は、ちゃんとここにあるよ。
どんなに粉々になっても。どんなに苦しくて傷ついても。
無くなってしまったわけじゃない。
ちゃんと鏡ちゃんの中にあるよ。
この痛みは何かを失うためのものじゃなくて、
本当に大切なものを、手に入るためのものなんだ』
ハニー先輩。
先輩はそうおっしゃってくださいましたが、
俺は実のところ、とても弱い人間です。今日それを初めて実感しました。
この痛みを強い心で消化してしまえれば、
それが一番なのだと思いますが、
俺には、ハルヒ以上に大切なものを、
これから先の自分が持てるかどうか、今は全く想像できません。
だから、今は、凍らせてしまってよいですか?
一度は解いて、切り刻んで、
すっかり消えてしまったと思っていたこの想いが、
まだこの身体の内側に残っているのなら、
再び固く固く凍らせて、大事に持っていて良いですか?
自分がもう少し……今よりも強くなれる、その日まで。
完全に溶けてしまう前なら、まだ、間に合うはずから。
「……で、どうした? 何か俺に用か」
小さく小さく固めた切ない胸の痛みを、
ぎゅうっと心の隅の隅に押し込んで、
鏡夜は敢えてとぼけた様子で聞き返してみた。
すると、電話の向こうのハルヒは声高に叫んだ。
『今日の昼休みのことに決まってるじゃないですか。
鏡夜先輩、環先輩に何言ったんですか!』
「何って、ちゃんと誤魔化しておいたが、それが何か?」
『嘘はつかないでください!』
「嘘じゃない。ちゃんとお前との約束は守ったぞ。
お前の気持ちのことは何一つ環には言っていない」
約束は、ハルヒが環のことを密かに想っていること、
それを自覚しつつも、夢へと突き進む環のために今は黙っているということ、
その彼女の本心を、鏡夜からは環に伝えない、というものだった。
今日、鏡夜が環に暴露したのは、
あくまで鏡夜自身の感情であって、
ハルヒの気持ちを環にばらしたわけではない。
『嘘です』
しかし、ハルヒにきっぱりと断言されたので、
鏡夜はむかっとして眉間に皺を寄せた。
「嘘じゃないと言っている」
『じゃあ、なんだって、環先輩が突然ウチに来るなんてことになったんですか?』
「環が……お前の家に……?」
ぴくっと鏡夜の片方の眉が上がる。
「…………ほう?」
これは、また意外な展開だな。
「環がお前の家に行って、どうしたっていうんだ?」
鏡夜は感嘆したような溜息をもらしたあと、
ハルヒの質問には答えずに、逆にハルヒに問い返した。
『何にも知らないみたいに誤魔化さないで下さい。
鏡夜先輩、何か環先輩に言ったんじゃありませんか?』
「俺はお前のことは何も言ってない」
『だから、嘘は止めてくださいって』
「嘘じゃない。大体、昼休みの後、環の馬鹿は俺の話も聞かず、
誤解したまま怒って音楽室を出て行ってしまって、それっきりなんだぞ。
だから、環がお前の家にいってどうしたとか、俺は全く知らない。
環の奴はまだそこにいるのか?」
『いえ、さっき帰りましたけど……でも本当に何も言ってないんですか?』
「さっきからそう言っている。
それとも環が、俺からお前の気持ちを聞いたとでも言ったのか?」
『いえ、そういうわけではありませんけど、
じゃあ本当に、鏡夜先輩の所為じゃないんですね?』
「いい加減信用しろ。それより環と何があったんだ?」
不承不承といった感じではあったが、
最終的になんとかハルヒは納得してくれて、
突然ハルヒのアパートにやってきた環と、何があったのかを話してくれた。
かなり動揺しているようで、要領を得ない部分も多かったが、
彼女の話を最後まで聞いて、
ようやく、ハルヒが自分に電話をかけてきた理由が分かった。
そして、そこから環が自分にメールを送ってきた理由も必然的に導かれる。
なるほど、どうやら……。
電話の向こうのハルヒに悟られないように、鏡夜は口元に笑みを浮かべた。
あの喧嘩は無駄ではなかったようだな。
『あ、鏡夜先輩、ちょっと待ってください』
「なんだ?」
一通り話を聞いたところで満足して、
電話を切ろうとしたら、ハルヒに引き止められた。
『環先輩との喧嘩は大丈夫ですか?
なんか自分の所為で、色々と、余計にこじれたような気がしますが……、
環先輩やっぱり何か変な風に捉えているみたいですし、
明らかに鏡夜先輩に怒ってるみたいでしたし』
「ああ、それか」
『何を他人事のように……自分だけじゃなくて、
知ってると思いますけど、光も馨も心配してるんですからね。
土日だと学校で会えないから、電話してみようかとか色々と三人で相談して……』
「ほう。そこまで心配してくれてるとは、なかなか先輩思いの奴らじゃないか」
『茶化さないで下さい! こっちは真剣に心配してるんです』
「それは悪かったな。だが、 一番の懸案事項は消えたんでね。
まあ、なんとかなるだろう」
『一番の懸案事項って、進学のことですか? そこは環先輩納得してくれたんですか?』
そうか。
ハルヒはまだ、大学の進路のことで、
俺たちがぎくしゃくしてると思っているわけか。
問題の焦点はすでにそこから離れているというのに、
相変わらずハルヒの視点は取り残されたままの状態が、
なんだか妙に可笑しくなってきて、
鏡夜はくつくつと喉を震わせて笑ってしまった。
「自分、何か変なこと、言いましたか?」
大声で笑ったつもりはなかったが、
今度はハルヒに気づかれてしまったようだ。
「いや。こっちの話だから気にするな。
あまりお前らに心配をかけるのも申し訳ないからな。
この土日でちゃんと環の誤解を解いて、仲直りしておくとするよ」
普段は環の事を、馬鹿だの阿呆だのなんだの言っているが、、
実のところ、環には「適わない」と思う部分は結構多い。
だが、人の心の裏側を読んだり、
陰で策略をめぐらすことにかけては、環にも誰にも負けない自信はある。
今も、ハルヒが電話をかけてくれたおかげで、
環が明日、家にやってくるまでに仕掛けておく、
一つの案を思いつくことができたことだし。
「さて……」
ハルヒとの通話を終えた後、
鏡夜は携帯のアドレス帳から、別の人物の電話番号を呼び出すと、
通話のボタンを押した。
【常陸院馨】
* * *
続