* * *
「あのワイン、あれはお前が買って来たものじゃないだろう?
一体、誰の入れ知恵だ?」
「え……『入れ知恵』って、あれは……」
普段から嘘なんて言い慣れてないし、
基本的に、鏡夜に嘘をつこうなんて気は全くないので、
つい反射的に真相を答えそうになった時、
一昨日の夜のメイの言葉が脳裏をよぎった。
『念のため言っとくけど、あたしからもらったってことは言わないで、
ちゃんと、あんたが自分で用意したってことにすんのよ?
じゃなきゃ全然意味ないから』
昨日、ワインを受け取った鏡夜は、
ハルヒが期待したほどには、あまり大きく感情を出してくれなかったけれど、
食事の合間に何度か、ボトルのラベルを興味深そうに見ていたから、
それなりに、このプレゼントを喜んでくれていたように思う。
そういう意味で、メイの作戦は大成功! なのだから、
ここで、「実は自分は何も用意してなくて、ワインはメイからもらった」
……なんて答えたら、
喜ばせた分、余計にがっかりさせてしまうことになるだろう。
「あ、あれはですね……ええと」
ハルヒは言いかけた言葉を,
なんとか有耶無耶にするために、
肩に置かれた鏡夜の手を払いのけようとした。
「あれは、ちゃんと自分が買って来たものですよ。
……って、とりあえず離してください。先輩、重いですよ」
だが、鏡夜は疑い深い視線をこちらに向けたまま、
一向に、ハルヒの上からどいてくれそうにない。
彼の手をほどくために振り上げた右手も、易々と制されてしまう。
傍から見れば、彼氏に乱暴に床の上に押し倒されている彼女、
なんて、不穏な見方をされてしまいそうな光景かもしれない。
でも、目の前の鏡夜は、納得していないような顔つきはしているものの、
怒ってはいないようで、手首は握られているけれど、そんなに強い力では無い。
あの、雷鳴り響く夏の日に、
ベッドの上に押し付けられた時のような、
手首に紅い跡が残るくらいの、怖いほどに強引な力ではなく、
あくまでその手は優しい。
要するにこれが、恋人達の戯れ、といったところなのだろうか。
「ふうん……なら聞くが、何処で買って来たんだ?」
「え? どこでって……そ、それは、え、えっ~と、
あ、そ、そうです。あれは、一昨日、駅前のデパートで仕事の帰りに買って……」
答えている自分でも、わざとらし過ぎる言い訳だと感じていたのだから、
人の心を読むことに長けた鏡夜にしてみれば、なおさらだろう。
ハルヒの苦し紛れの答えを聞くなり、
やれやれと、思いっきり溜息をつかれてしまった。
「すぐ、バレるような嘘をつくな。
あのワインが、そこらのデパートで買えるわけがないだろう?」
「え!? そんなに高級なワインだったんですか? あれ」
メイからタダでもらってしまったものだったので、
実は、ものすごく高価なワインだったのだろうかと、
申し訳ない気持ちでいっぱいになったハルヒが、
慌てて聞き返した途端、鏡夜に意地の悪そうな薄笑いをされた。
「くくく、語るに落ちたな」
「あ……」
自分で買って来たものなら、
その物の値段くらいは当然知っているはずで、
口をつぐんでも、もはや後の祭り。
お前が俺に嘘をつこうなんて無駄なんだよ、と、
ものすごくイキイキとした表情で、鏡夜は笑っている。
昨日の夜、部屋にやってきたときは、
かなり仕事に疲れている風だったのに、
(もっとも、思い返せばそれは二日酔いのせいだったのかもしれないけど)、
今は、いつもの鏡夜節全開といった感じで、
前日までの疲れなんてどこへやら、なんだか最高に楽しそうだ。
「ほら、さっさと本当のことを話せ。一体、誰の計画だ?」
「はあ……すみません。嘘をつきたかったわけじゃないんですけど、
実は、あのワイン持ってきてくれたの、メイちゃんなんです」
「……メイさんが?」
鏡夜の意外そうな表情を見るに、
彼は、どうやら別の人物の名前、
おそらくホスト部の他のメンバー達の名前を予想していたようだ。
それが、思っても見なかった名前を聞いたために、
随分拍子抜けしてしまったらしく、
手首を押さえていた力が緩んだので、
ハルヒは、鏡夜の手を静かにどけて身体を起こした。
「でも、メイちゃんからもらったってことは、黙っておく約束だったんです。
その……私が自分で用意したってことにしたほうが、
鏡夜先輩が喜ぶはずだからって言われて。嘘ついて、すみません」
男って単純だから、というあたりの会話は、
鏡夜のプライドを変に刺激しかねないので、
その部分だけは隠したままで、素直に謝ると、
「まあ、メイさんに言われていたのなら仕方ないだろうが……」
鏡夜も、今度はハルヒを押さえこんだりせず、
床にぺたりと座ったハルヒのすぐ傍に、胡坐をかいて座りこんだ。
「そういえば、メイさんとは最近まったく連絡を取っていなかったが、
お前は良く電話しているのか?」
「いえいえ、私も久しぶりだったんですよ。
仕事も忙しかったですし……色々余裕がなかったというか。
それなのに、一昨日の夜に事務所に帰って仕事してたら、
突然メイちゃんから着信があって。多分一年ぶりくらいだと思います」
「何か急な用件だったのか? そういえば、メイさんは、
いずれ自分の店を出したいとか言ってた気がするが、その相談か?」
「いえ、仕事の話じゃなくてですね……その……、
私が……あの……先輩と付き合ってることを、光と馨から聞いたとかで」
名実ともに恋人同士となった今となっては、
今更、何も照れるようなことはないわけで、
口にするたびに、いちいち赤面していては身体がもたない気がするけれど。
「すごく怒られちゃったんですよ。
そういうことは女友達に真っ先に報告するんじゃないの? って」
どうしても、まだ、どきどきしてしまう。
この部屋の中には、彼と自分の二人以外に誰もいないはずなのに。
あんなにも近い場所で触れ合ったばかりなのに。
「それで、今日のことを話したと?」
「はい。で、プレゼントとか用意してないって話をしたら……、
あ、用意してなかったのは、
先輩にプレゼントしたくなかったということじゃなくてですね、
鏡夜先輩みたいなお金持ちな人にふさわしい、
気の利いたものが全然思いつかなくて……」
「お前は、いちいち考えすぎなんだよ」
「え?」
すっかり呆れ果てた声が気になって、
隣に座っている鏡夜の顔を見つめたら、
ハルヒの眼差しに気づいた鏡夜は、
少しばかりバツの悪そうな笑みを浮かべてから、
眼鏡の位置を直す、お馴染みの仕草の後で、すぐに澄ました顔になった。
「……大体、金を出せばいいだけのものなら、自分で買えば済むだけの話だ。
別に、俺はお前から、そういうものが欲しいわけじゃない」
さっきまであんなに上機嫌だったくせに、
急に、夢から覚めたみたいにクールダウンして、
いつも以上に、なんだか冷たい突き放された言い方をされてしまった。
「はあ……そうですか……それはまあ、そうですよね……」
確かに、ハルヒがいくら奮発して高価な品物を買ったところで、
鏡夜の日常的に使っている品物にも足りないのは目に見えてる。
こと、金銭的な常識に関しては、
ハルヒの感覚は全く通じない世界で生きている人だから。
でも……それはわかってるけど……それでも、メイちゃんに指摘されてから、
自分なりに結構悩んだつもりだったんだけどな、プレゼントのこと。
最終的には時間がほとんど無かったこともあって、
受け取ったワインを、そのまま使うことになってしまったけれど。
自分は今まで、鏡夜に支えてもらうだけじゃなく、
沢山のものをもらってきてしまったから、
なんとか少しずつでもいいから、返していきたいと思っている。
彼が自分にくれた、沢山の素敵な『形のないプレゼント』。
その中で、最も大きく重たいものは『彼の心』……彼自身の『想い』。
それと同等か、できればそれ以上のものを、
ちゃんと返して行かなくちゃいけない。
今度は、遅すぎないように。
形のないものに対するお返しは、
本当は物でなんて代えられないって、
それは、十分わかっているけれど、
自分は未だ、彼に対して『全く同じプレゼント』を渡すことができないから、
せめて、二人で一緒に過ごすこの時間だけは、
出来るだけ彼に喜んでもらいたいと思うのだ。
例えば手料理を作ったり、楽しく会話をしたり、
部屋でゆっくりくつろがせてあげたり、
時には予想外のプレゼントを上げて驚かせてみたり、とか……。
もっとも、鏡夜を喜ばせるそのラインナップの中に、
昨日から、『新たなメニュー』が一つ加わったことだけが、
若干、不本意といえば不本意ではあるが。
「確かに、私には先輩に似合うプレゼントなんて、
買えないかもしれないですけど……。
まあ、それで、その時の電話で、
メイちゃんにプレゼント用意してないって話したら、
初めて一緒に誕生日を過ごすのにありえないとか言われちゃって、
それで、あのワインを、わざわざ事務所まで届けてくれたというわけで……」
「おい、ハルヒ」
ちょっとがっかりした気持ちで、
ワインを受け取った事情をぽつりぽつりと説明していたら、
話の途中で、鏡夜に腕をぐいっと引っ張られて、
あっという間に、その胸元へ抱き寄せられていた。
「言い方が悪かったが、勘違いするなよ?」
「……先輩?」
抱きしめる腕の力が徐々に強くなっていき、
ハルヒの顔は、彼の胸の上に押し付けられる。
「俺は、お前が傍にいてくれればそれで満足だから、
変に無理をして、贈り物を選んでくれる必要はないという意味だ。
だが、別にお前からのプレゼントが要らないなんて言っているわけじゃない。要するに……」
体を包む温かい熱と、緩やかに上下する胸元に、
目を閉じて身体を預けていると、
彼の優しい声が、するりと耳の奥に滑り込んでくる。
「お前が俺のために選んでくれるものなら、
どんなものでも喜んで受け取るし、嬉しいということを言っているだけだ。
金額がどうという問題じゃない」
「それは……例えば、『庶民スーパーの大量生産的シャツ』でもですか?」
「……だから……お前の喩えは、どうしてそういう品物になるんだ……」
小さな溜息の後、彼の唇が、自分の額の上に触れた。
「まあ、それがお前が真剣に選んだものなら構わないが……、
だが、ハルヒ、お前は俺のために、
真剣に『庶民スーパー』で贈り物を買おうと思うのか?」
「いえ、いくらなんでも、それは流石に」
メイに誕生日プレゼントの事を指摘されたときには、
あまりに時間が無かったから、
特に深い意味も無く、スーパーで買うのは駄目かなあ? なんて、例を挙げて見たものの、
鏡夜に喜んでもらうために、時間をちゃんと取って買い物をしようと思ったら、
流石の自分でも、近所のスーパーで済ませようとは思わない。
「だろう?」
結論としては、何になっても構わないけれど、
要するに、選ぶ過程が大事だし、その気持ちこそが嬉しいのだと、
そう言って鏡夜は優しくハルヒを抱きしめてくれていた。
「でも、どうして鏡夜先輩、あのワイン、
私が買ったものじゃないって分かったんです?」
「それは……ワインを自分で用意しようと思いついたのなら、
普通、ワイングラスも一緒に準備しようと思うだろう?
だから、最初から、少し妙だとは思っていたんだ」
「あーそういえば……って、気になってたんなら、
黙ってないでもっと早く言ってくださいよ。
普通にコップに注いじゃったじゃないですか!」
「それならそれで、お前らしいと思ったから、放置したんだよ」
「なんですか、その私らしいって。馬鹿にしてます?」
ちょっとむかっとして、彼の腕を指先で叩くと、
鏡夜に「お返しだ」と言われ、
ぎゅーっと力いっぱい抱きしめられてしまった。
肩が痛いし、息もし辛いので、
苦しい苦しいと、腕の中でもがいていたら、
しばらくして、鏡夜はやっと力を抜いてくれて、
息を吐き出しつつ見上げたら、とても愉快そうにこちらを見て笑っている。
「あはは……しかし、メイさんというのは意外だったな」
「そうですか? でも、メイちゃん結構お酒のこととか詳しいですよ。
私より全然強いし……でもそっか。ものすごく高いワインだから……?」
「いや、値段よりも、入手経路の問題だな。
あのワインは、日本での輸入元が一社しかなくてな。
しかも、俺の誕生年のワインは、
日本に300本程度しか入ってきてなくて、とっくに完売しているはずなんだよ」
「あ! デパートで売ってるわけがないって、そういう意味ですか」
「そういうことだ。ま、日本に出回ってる本数が本数だから、
今、手に入れようと思ったらそこそこ値段も張るが、
……とはいえ、手が出せないほどじゃない」
どうせラベルを見ても、
自分にはどんなワインだか全然わからないだろうと思っていたので、
銘柄は一切確認してなかったけれど、
鏡夜が説明するところによれば、かなりレアなワインということらしい。
「だが、普通に買うことができるならまだしも、
市場に在庫が無いんだから、メイさんがいくらワインに詳しくても、
一日やそこらで簡単に用意できるものじゃない。
まあ、ワインのコレクションをしてる知人でもいて、譲ってもらったのかもしれないが」
「うーん。でも、メイちゃん、一日どころか、
私に電話かけてきた、その日の夜に事務所に持ってきてくれましたよ?」
「というと、一昨日の夜にか?」
「そうです。終電間際だったから、十二時ちょっと前だったと思いますけど。
電話を切ったのは多分、八時過ぎてたと思いますから、たった数時間後ですよ?
しかも、綺麗にラッピングもしてあったし。
てっきり、事務所に来る途中に、
どこかのお店に寄って買ってきてくれたんだとばっかり思ってました。
……でも、もう売ってないものなら、どうやって用意してたんでしょう。不思議ですね」
「一昨日の……夜八時過ぎ……ねえ」
鏡夜は左手でハルヒを抱きしめたまま、
右手を顎先にを当てて、しばらく考えを巡らせていたようだったが、
「なるほどね。そういうことか。それで、あの時……」
何事か、ぶつぶつ呟きながら、
すぐにその手を降ろすと、ハルヒの背中に再び回した。
「何か思い当たることでもありました?」
「ああ。やっぱり俺の読みは間違っていなかったようだ。
あのワイン、単なるメイさんの好意ではなくて、
……どうやら、裏に『厄介な黒幕』がいたみたいだな」
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続
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