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ここ数年間、
ずっと、自分を駆り立てているのは、
探さなければいけないという、
一種の「責任感」かと思っていたが、
よくよく考えなおしてみれば、
正確には、「強迫観念」といったほうが正しい気もする。
どこからやってくるものか分からない。
なのに、逆らうことができない。
正体不明の黒々とした感覚に追い立てられて、
ただ、ひたすらに自分は探し続けた。
来る日も、来る日も。
けれども、そうやって探し続けているうちに、
分からなくなってきた。
自分は一体「何を」探しているのだろう?
自分は一体「何故」探しているのだろう?
自分の動きを制御する、
そんな根本的なことさえ、分からなくなってしまった。
それなのに、「探すのを止める」と言う選択肢だけは、
いつまでたっても選ぶことができなくて、
自らの不毛な行動に嘆息しつつ、
来る日も来る日も、探すことを続けてしまうのだ。
あれから、もう何年たっただろう。
いい加減、そろそろ潮時ではないだろうか。
毎日のように、どこか、客観的な立場で、
今の自分を、高みから見下ろして自ら嘲り笑う。
幕を引くのは、至極簡単なことだ。
もう探さなくていいのだと、
一言、「自分が命ずれば」それで終わる話。
しかし、それは同時に、至極困難なことでもある。
もう探さなくていいのだと、
「自分から言い出さない限り」は、
いつまでたっても終わりはこないから。
責任感だろうが、強迫観念だろうが、
きっかけや原動力はなんであっても、
それが自分の意思の一つの形である以上、
終局の言葉を言い出せない自分の、
この生産性のない行為は続いていく。
何故、終わらせることができないのか。
その理由は、はっきりしている。
自分は、とても大事なことを……、
おそらくは、それこそが、
今の自分を取り巻く全ての混沌の答えになるであろうことを、
「忘れて」しまっているからだ。
それが何か思い出さないうちは、
なんだか何もかもを、
ただ中途半端に投げ出すだけに思えて、
止まることができないのだ。
探しているのは、
一体、「何」だったのか。
探しているのは、
一体、「何のため」だったのか。
探しているのは、
一体、「誰の」ためだったのか。
それらの全ての答えを導くキーワードを、
思い出すために、自らの記憶の糸を辿る。
答えは自分の頭の中の、
過去の残像に求めるしか手立てはない。
現在も未来も、
もう決して、上書きされることが無いのだから。
自分が思い出さなければいけないことは、
今、探そうとしていることとリンクしている気がする。
確証のないことを断定するのは嫌だから、
あくまで「そのような感じがする」といった、
曖昧な表現しかできないけれど。
しかし、妙なことになっている。
自分は、そもそも、
こんな曖昧な発言をするような人間ではなかったはずなのに。
探さなければいけないのは、
例えるなら、至極、繊細な白い糸の上、
目を凝らさなければ見つけられないほど、
いや、もしかすると、
指先で慎重に触れてみなければわからないほどの、違和感。
小さな小さな「結び目」。
はたして、どこまで手繰れば見つかるだろう。
一体、どこまで。
* * *
続
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